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プロフィール
 

シャピール 亜矢子 (旧姓小川)

175センチのビッグな二児の母。
情熱のふたご座☆まじめな!?A型^_^;
六星占術なら「土星人+の霊合星人」
マヤ暦で言うと、KIN29「3(電気)赤い月-青い手」

こんな私の年表です。
思いのままに記しています。
時間の許す時に目を通してやって下さい。



1970年

6月16日 午前4時39分 山口県山口市日赤病院で4200グラムのBIGなBABYが誕生

山口市内あるケーキ屋を営む4番目の子供として生まれた。
予定日は5月の下旬。四人目にも関わらず42週で生まれたことから自分でこの日を選んで生まれて来たような気分。
(写真)祖母に抱っこされて

1973年(3歳)
お寺にお嫁に来られた雅子さんと出会う

山口市内のあるお寺の敷地内の家に住んでいた。
その時住職さんの所へ嫁いで来られた雅子さんという素敵な
女性に出会う。私にとってこれが運命の出会いだった。
遊びに行っては『おばあさんのスプーン』
という本をよく読んでもらったことを覚えている。

(写真)お寺の境内で



1982年(12歳)

大阪の名門蒲生中学へバレー留学(この時期がなければ今がない。一日一日が死にもの狂いだった。)

小学1年生でなんと130センチ。卒業する頃には173センチ。在校生の前で表彰された。こんなことで表彰されたくね〜、なんて思いながら・・・。
この頃から173センチもあった私は長身を活かし親元を離れ、一人で大阪へ。
朝練・昼練・午後練・一日7時間以上の練習。竹刀で叩かれ、歯を食いしばった日々。
先輩の家や同級生の家にお世話になった。マンション暮らし等で中学生らしからぬ生活を送っていた。この時の友人は戦友とも呼べる特別な仲間。

「他人の家の釜の飯を食べる」ことで多くの事をまなんだ時期。引退後は監督・大黒先生の自宅でお世話になる。殴られても、しごかれても彼は第二の父の様な存在。
前代未聞の下手くそ学年と呼ばれていた私達が残した結果は全国準優勝!!
周囲の期待を良い意味で裏切った。
(写真)バレーボールマガジンより

朝の4時まで練習したこともあったな・・・。
監督の口癖は「人と同じことをしても勝てない」だった。
他のチームが100本スパイク練習したらうちは200本するって。
でも、その考えは間違っていなかったと思う。
当時は地獄にいる気分だった。
でも、一度たりとも逃げようとは思わなかった。不思議だね。

中学3年の冬には中学生部門、日本代表で台湾遠征へ。
人生初の海外遠征だった。

大黒先生と最後の別れ際、先生の自宅の鍵を手渡された。
『お前にとって第二の我が家だ。いつでも、帰って来い。』と。
本当に嬉しかった。この言葉は一生忘れない。

1985年(16歳)
山口の三田尻女子高等学校へ進学(我武者羅だけでは駄目。結果を残すという責任感を胸に・・・)

この頃、父の糖尿病が悪化し、自営していたケーキ屋を閉めることに。
その頃から母が一人でご飯屋を切り盛りすることになった。
経済的にも苦しい中、両親は私にかなりお金を使っていたと思う。試合も北海道から沖縄まで見に来てくれていたから。
「親を思う心に勝る親心」感謝している。どれだけ感謝しても足りないくらい。

蒲生中学校の話を父に紹介しかけ橋的存在。
三田尻高校の監督・河村先生。
だから河村先生にも恩返しの形で進学は山口へ里帰り。
高校は特待生だったので全てが免除。
親にとっても恩返しのつもりだった。
(写真)河村先生と、とっても仲良しチームメイト

三田尻というチームは常に県で一位、二位を争っていたチームだったが、この年を境に県下首位不動へ。特待生としてのプレッシャーを胸に、居残り練習も欠かさず、自分の出来るベストを尽くした。私は背が高かったけれど、そんな器用な選手ではなかったので、人一倍練習しないと、駄目だった。
河村先生には記憶を失うくらい殴られたエピソードがあるけれど、あれも経験のひとつ。翌朝、教室のみんながびっくりする位のあざが顔に出来ていて・・・
「暴走族にやられた」って言ったら、みんな信じていたからね〜。はっはっは〜笑

春高バレーではベスト4。インターハイベスト8。
高校生部門、日本代表、中国遠征へ。
バレーを通じて海外に行けた事は本当に良い経験だったと思う。
出来の悪いキャプテンに付いて来てくれたチームメイト、みんな本当にありがとう。



1988年(18歳)
ダイエー入社(オレンジアタッカーズ)
セリンジャー監督と出会う。

親を喜ばせてあげたいという思いも胸に・・・
当時注目を集めていたダイエーに入社。
その頃、長い間『日本一不動のチーム(日立)』がいた。
全日本のチームの監督でもあった山田監督が率いるチームだったが、
そのチームを倒すために、と中内社長が考えたのが外国人監督。
その時は、まだサッカー界もJリーグではなかったし、他に外国人監督なんて耳にする機会がなかったから、なんか新鮮だった。いや、戸惑った。という言い方の方が正しいかも知れない。人がしていないことをしたのがこの中内社長のやり方だったと思う。
終わってみれば中内社長の人がしない発想には本当に感謝。これがなかったら、セリンジャー監督との出会いはありませんでしたから。

練習内容?そりゃー凄かったですよ〜。他のチームの人からもダイエーの選手の体がみるみる変わっていくって言われる位でしたから・・・。

陸上部かって言うくらい走らされて、跳ばされて、筋トレもボディービルダー?みたいな勢いでしていましたからね。キューバの選手なんか、100キロのバーを肩に持って軽々ジャンプをしていましたから野球選手のようなかっこいいお尻はそんなトレーニングの賜物です。

会社の景気も良かったという事もありましたし、
海外遠征に数カ国行けました。
これも会社やセリンジャー監督のお陰です。

監督の発想も多くの経験を積む事
監督から教わった英語で好きな言葉。
「Everything is possible」
監督は常に私たちと比較する選手は超有名人。とにかく前向き、高い目標を掲げ、厳しい練習内容だった。
何所へ行ってもその国のナショナルチームと試合させてもらいましたし、とても貴重な経験でした。一番のサプライズは、どこの監督もセリンジャー監督のことをご存じで。
額が広いのは私も負けませんが彼は顔が広い!オランダの入国なんかパスポートなしで顔パスでした!

1995年(25歳)
1月 阪神大震災

Vリーグ中に震災にあう。
忘れることの出来ない怖い経験だった。
三宮の方ではゴムの燃えるような臭さが漂って。
監督の家が三宮でしたから非難するのが
とても大変だった事を覚えています。
(写真)三宮にて
言葉の通じない監督は本当に怖かっただろう。

山口の両親と連絡が取れたときも父が『大変だろうが貴重な経験させてもらっているから頑張れ』と。私は父のこんな所が好きでした。

Vリーグ中でしたからユニフォームの腕の部分に『がんばろうやWE LOVE KOBE』のワッペンをつけて試合に挑んだ。偶然にも神戸に本拠地を置いているオリックスもそのシーズンに優勝。
そして、ダイエーもセリンジャー監督が来日して初めてのVワン達成!!

私はそれを機会に引退を決断した。

「震災を機に進路が変わる」
震災で何かしら影響を受けた方は少なくないと思うけれど私もそのうちの一人だったのかも知れない。
震災がチーム一丸・優勝を導き、その優勝が引退を決意させた。

長く続けた国内でのバレーボール人生に終止符をうち、海外生活に挑戦。

大きな転換期だった。


はい。ここで、私が残した数々の汚点特集!!パチ。パチ。パチ。笑

先輩の結婚式でした芸3連続!

名取智恵選手の結婚式。披露宴会場の従業員に
混じってシャンペンをついでまわった。
初めは誰も気付かず爆笑の渦でしたよ。大成功!

夏田由美選手の結婚式。
お相手がオリックスの選手だったこともあり、おっかけの女子高生で登場。
足が太い為、ルーズソックスがルーズにならなかった(>_<)

 

 

 

山内美加選手の結婚式。これまたお相手がオリックスの選手。
何をしようかと悩みぬいた結果、新郎新婦にインタビューに言って、夫婦間の暴露話や秋田や徳島の方言についてつっこみトーク。

ユダヤ人は苦難をジョークで切り抜けたと言うけれどある意味私もそんな感じですかね。
私が物事を決める時、それが“面白いか”“面白くないか”が決断のキーポイントでもありので・・・笑わせてなんぼ♪

以上、私の若さ=馬鹿さ、三連ちゃんでした〜(@^^)/~~~



1995年(25歳) 

5月 友人ポーラがハワイをくれた

Vワン達成した当時のチームメイトだった
アメリカ人選手のポーラワイショフに
「優勝したらハワイへ連れて行ってあげる」と
約束され、夢実現。
ちなみに、彼女はこの優勝した年のMVP選手。
初のハワイはポーラがプレゼントしてくれた!
サンキュー!ポーラ(*^_^*)
凄いのはね〜。ポーラはハワイに行ってもジムでトレーニングしていました。
わ、私?そりゃ、ショッピングさ〜。(^^;)
(写真)ポーラとハワイにて

6月 アメリカへそしてイスラエル

アメリカのアラバマに2ヶ月滞在。その直後イスラエルへ。9か月間滞在。

アラバマではローズメジャーズ(元ダイエー選手)に招かれホームステイ。
彼女の元でバレーのキャンプのお手伝いをさせてもらい、語学や指導法を学んだ。

イスラエルではクラブチームに所属する傍ら
中学生男子チームの監督に所属。

(写真)中学生チーム

高校生に混じって学校へ行き、英語の勉強もさせてもらった。
日本では出来ない経験を色々とさせてもらった。

イスラエルではセリンジャー監督が幼少期過ごされた『キブツ・エナミフラッツ』という所でお世話になり、多くの方にお世話になった。

クラブチームはイスラエル優勝、中学生チームはイスラエルで準優勝。
ちなみにその当時クラブチームでセッターをしていた親友(写真後列の一番右)の弟が今の私の主人。
人と人の巡り合い、縁の不思議を体験した気がする。

 

 



1996年(26歳) 

3月 まさかの故障

最終戦の途中で左足膝前十字靭帯断裂
試合中にスパイクの着地で左膝の靭帯を損傷してしまった。
膝の故障は初めて・・・海外ということもあり、不安は大きかったがチームに対して申し訳ない気持ちもあった。
翌年、オーストリアのチームと契約を交わしていたものの断念。帰国。
帰国して間もなく膝の手術。
(ダイエーのチーム専属ドクター津村先生にお世話になる)
この故障を痛手に父が『もう、バレーをやめてもいいぞ』という言葉をかけてきた。その言葉をきっかけにバレー選手人生に終止符をうった。もう、争わなくて良いと、肩の荷がおりたような気がした瞬間だった。

(写真)手術前、アシスタントの先生が
私の気を紛らわしてくれる為のお笑いの一枚。
お笑いのツボを知っている先生。ありがと!

 

1997年(27歳)
膝のリハビリを終え、復職 

フィットネスクラブ (株)トゥモロー入社
職を探していた時に出会ったのがここの社長。
面接の時に、『バレーしている人に悪い人はいない』
と採用してくれた。
実は社長がバレーをしておられたようで。
これも、バレーを通じて得た縁でしょうか。
ここではフィットネスクラブのトレーニングのメニュー作成、ストレッチ指導など、外に出て会社の(関西電気、日本銀行、神戸市役所、姫路市役所など)従業員の方に対する健康促進のセミナーや体力測定などしていた。
一人暮らしでやっていくにはキツイお給料だったけれど、仕事が楽しかった。色々学べた。多分、この頃は資金をつくる時期で無く体で学ぶときだと思っていた。
講義指導をした事もあったし、パソコンを使えるようになったのもこの会社のお陰。



1998年(28歳)   

12月 主人の誕生日に入籍・ヨーガとの出会い

これも、バレーが結んでくれた縁。
イスラエルのチームメイトの弟さんと結婚。
ゴールデンウィークの休みを利用して
イスラエルに旅行。2年ぶりのイスラエル、
後に主人となる彼とも2年ぶりの再会。
お互いのハートに一気に火が点いたような感覚だった。
お互いがこの時期を待っていたような瞬間だった。
「グットタイミング」というものが本当に存在すればイスラエルに旅行した時期はグットタイミングだったのでしょう。
勿論、結婚を決めた理由は私の原点でもある『面白い』こと。この人となら貧しくとも笑って暮らせると思った。
現に財産や地位はなかったけれど、ハートはリッチな彼でしたし、タフだった。
運良く、日本での 仕事(神戸外国クラブ)も直ぐに見つかり安心したかと思いきや・・・
そう簡単に幸せばかりは続かず・・・

入籍後間もなく、卵巣出血という突発性の病気で、手術を強いられ体調を崩した。
手術が1日おそければ死んでいたかも?と看護婦さんに言われるくらい極度の貧血をおこしていた為、不調が続いた。

このことがきっかけでヨーガを始めることに。


1999年(29歳)   
9月 披露宴

戸の外国クラブにて披露宴を行った。
108人の方が来てくださり友人が司会を務めてくれた。

私と主人の出会いに不可欠な方ばかりからの祝福。
遠方から来られた方にも本当に感謝している。

セリンジャー監督はアメリカから。
監督の奥さんはイスラエルから。
中学当時のコーチは北海道から。
山口からの友人も大勢来てくれた。

(写真)
左から雅子さん・立っているのが母・中央の外国人女性が監督の奥さん
私にとって3人がマイ・マザーです。

 




2001年
1月 待望の女の子出産 アリエル(有恵留)(ARIEL)

一人目の流産をしたことから本当に待望の子供だった。出産の方はマタニティーヨーガの成果あってか、良い出産が出来たと自負している。

出産を無事終えて実家(父親)に電話したら、
『女性として大役を果たしたね。立派な女性だよ。お父さんでも頭が上がらない。』と、頑固おやじの口からそんな言葉が出て来た。おやじ、ありがとう。



2002年 

3月 父(享年62歳)糖尿病の合併症心不全で死去

父は糖尿病で30年も患っており、
入退院を繰り返していた。バレーの応援も
インシュリンを片手に来てくれていた。
他界する3年前に片足を切断。
2ヶ月前にはもう片足も切断。
男気の強い人だったから、辛かったと思う。
父が他界したと妹から電話を受けた時はショックだったが、受け入れられる死だった。『天国では両足で歩けているのだろう』と思うと良かったかなと思えたからだ。ただ、この死を境に知ったこと、気付いた事は死というのは去る方もそうだろうけれど残される人がどれだけ辛いかということ。
だから母にとって父の死はとても辛かったと思う。

11月 切迫早産で大騒動した結果元気な女の子出産 リオ (里桜)(LIOR)

父が他界したとほぼ同じ時期にお腹に宿った子供がリオ。
ただ、最初から切迫早産傾向にあり、父の葬儀にも行けなかったほど。
入退院を繰り返し、子宮口を縛る手術もした。
長女は1歳だったにも関わらず、お見舞いに来てくれても、
グズグズ言わず、パパと手をつないで家に帰っていた。
ありがとう、ありちゃん。
出産は普通分娩から急遽、帝王切開に。
陣痛の途中で心音が下がったから。
最初から最後までお騒がせな妊婦でした。(>_<)
それもそのはず、ワンパクりおちゃんの誕生♪

2003年
5月 復職。ヨーガ講師として新たな道がスタート


ある朝、新聞の折り込みチラシでボールを使った
エクササイズの講師を募集している、
そんな広告を目にしました。
早速、面接に。『ボールエクササイズというより、
ヨーガとミックスしたクラスにしたい』と希望したら
快く受け入れくれた。

子育てをしながらヨーガを学び、
ヨーガの講師として活動開始!!



2005年

2月 インド中央政府公認のヨーガ教師(YICC)の資格習得
大切な人との死別

2年かけて勉強したヨーガインストラクターの資格習得。
最初は授乳をしながら講義を受けることもあり、大変だった
けれど、無事終了し大満足!

この年は私にとって死について考えさせられる一年だった。
本当に親しい方の死が続き精神的にも疲れた年だった。
又、その中で多くの気付きや学びがあったと思う。
セリンジャーさんの奥さんが二月に他界され、
雅子さんも四月に帰らぬ人となってしまった。
未だに、涙が溢れて来る時がある。
永遠に心の中で生きている。
(写真)イスラエルにある奥さんのお墓、石には愛という漢字が刻んである。

2006年 
12月 アハバの代理店に!

以前から愛用していた死海の塩。イスラエルが縁をもたらしてくれた。
神戸そごう店にアハバの商品が出たことを機会に代理店となった。

イスラエルに変える度に死海には必ず足を運ぶ。
自然からの贈り物に感謝しながらとまった時間を過ごす。
死海からあがると塩だらけの体に驚く。
そして肌が驚くほど潤う。
現地の人は養生としてここへ足を運ぶ。
世界で最低点にある湖・・・死海


4月 インド中央政府公認のヨーガセラピー(YTIC)の資格習得

日本ヨーガ療法学会認定ヨーガ療法士

ヴィヴェーカナンダ・ヨーガ研究財団
  Yoga Therapy Instructors Course修了

ヨーガインストラクターから換算すれば約4年間。西宮まで通いました。
一ヶ月に一度というペースだったので、子供がいても主人の協力の下
無事修了することが出来たのだと思います。感謝しています。

木村先生http://www.japan-yoganiketan.com/(ヨーガニケタンのホームページリンク)を始め、多くの先生、先輩方にお世話になり一緒に学んだ仲間達とも良い縁が結べました。

6月 日本ヨーガ療法学会http://members.tripod.co.jp/JYTA/
(日本ヨーガ療法学会のホームページリンク)in福岡 症例発表

ヨーガの生徒さんで協力をして頂けた皆さん、ありがとうございました。
お陰で良い症例発表が出来ました。

11月 インド中央政府公認のヨーガセラピーのディプロマ授与

インドからディプロマが届き木村先生http://www.japan-yoganiketan.com/からディプロマを授与されました。
一番最初に講義に出席した日は寒い冬だった ように記憶しています。
まだ乳離れしていなかった次女(当時1歳2ヶ月)を抱っこしながらの講義はきつかったけれど今では良い思い出です。
こんなに大きくなりました。

そんな思いを込めて木村先生と一緒に写真撮影。

2007年4月 『ラ アハバ』オープン

念願の北野にご縁があり一軒家と出会う。
内装リフォームをして一階をスタジオに。
主人は独立して便利屋ラ アハバとして事業を開始。
私たち夫婦にとって大きな節目の年でした。

主人のお金と時間がある時に少しずつ内装工事を進めて行きました。

約3年かかり4階までのリフォームが終了。
多分これからも限りなく内装工事は続くのだと思います(笑)
創造・維持・破壊を繰り返しながら・・・




2009年1月 「KOBEまなびすとネット」生涯学習市民講師登録

神戸市の教育委員会主管の
「KOBEまなびすとネット」の生涯学習市民講師(http://www.kcc.zaq.ne.jp/comista/m_net/manabisuto_net.htm
に登録しました。
親子ヨガを指導させて頂く事になります。
頻繁に行うプログラムではありませんがセーヴァの
一環として活動出来れば幸いです。

 

2010年4月聖名拝受の式

インドからグルが来られ通常ならインドに行って行うものを
日本で聖名拝受が出来ました。とっても幸運だったと思います。

<聖名>
SHANTI SHIDHI DEVI
シャンティ シッディ デヴィ
(調和を愛でる女神)
Want to achieve the perfection with peace fullness

式の最後に木村先生が
「名前に負けないように精進して下さい。」
と半分ジョーク、半分本気で!?
おっしゃっていました。

いや、本当にその通りです。
オーム、シャンティ、シャンティ、シャンティ


2011年1月 NPO法人ブラーマ・クマリスのラージャヨガ瞑想基礎コース修了

http://www.bkwsu.org/japan/index_html
2010年の11月から神戸青谷にあるラージャヨガセンターにて瞑想基礎コースを受け
翌年1月に合計8回の下記の様な内容でしたがとても楽しく通わせて頂きました。

●意識と自己認識
•●沈黙の私たちの家
•●神との関係
•●カルマの法
•●輪廻
•●永遠の世界のドラマ
•●生命の木
•●精神的なライフスタイル

最初の5回はインド人の友人、ラリータさんのご指導だった為に英語でのやりとりがとても大変ではあったものの、ある意味かなり集中した状態で行えたと思います。途中、彼女がインドの方へ帰国された為、日本人の先生に習いましたが、日本語だとこんなに気が楽なんだと痛感(笑)しました。
これからも続けて行きたいと思っています。青谷の急な坂で必至に自転車をこいでる私を見かけたら笑ってください^_^;





2012
926
Clinical Applications of Trauma Sensitive Yoga受講
ボストン・トラウマ・センター発行の修了証

ヨーガニケタン関西支部にて開催されたトラウマ・センシティブ・ヨーガの講習会に出席してきました。

トラウマ・センシティブ・ヨーガとは、トラウマを抱えながら生きる人たち(サバイバー)の為のヨーガで、アメリカはボストンにあるトラウマセンターで実施されています。
今回はそのボストンでの指導者、「トラウマでヨーガを克服する」の著者でもあるデイヴィッド・エマーソンさんが来日。
直接ナマのお話を聴く事が出来ました。

サバイバーというとセリンジャー監督もホロコストのサバイバーであり本も出ています。(右)
彼も昔の事は多くは語られないですが多くの思いがあることは間違いないと思います。

アメリカでのサバイバーの多くが戦争体験者らしく同世代の人間がそういう問題で悩んでいると聞き胸が痛くなりました。この講習会では話にはあがらなかったけれど9.11のサバイバーやトラウマで悩んでいらっしゃる方も少なくないと思っています。

日本では震災、事故、病気など様々なケースがあると思います。
ヨーガでトラウマを克服できるのは素晴らしいことだと思いますし嬉しく思います。

私の先輩たちは震災や尼崎の脱線事故のヨーガセラピストとして活動されています。
私ももっと勉強を重ねて何かの役に立てればと思います。

最後に私がその日デイヴィッドさんがおっしゃっていた言葉で一番印象に残っている言葉は『僕がいつも念頭においているのはサバイバーの皆さんは僕よりはるかに強い・・・ということ。』です。何故か深く心に響きました。

普通患者として病院に行ったりセラピーを受けたりすると指導者が上、受講者が下というような感覚におちますが、この言葉は深いと思いますし、励みにもなるかと思います。

受容・感謝・愛情
シャピール 亜矢子

大切な出会い
シャピール 亜矢子 活動報告